貧乏エンジニア漫遊記

大手造船会社エンジニアが世界を股に掛けた、面白奮闘記です!

12.インド編(3)

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貧乏エンジニア漫遊記
インド編(3)

インド人はよく哲学的なことを考える。工事現場のガードマンに元グルカ兵がいた。グルカ族はチベット系で日本人に似ている。小柄だがインドでは最も勇敢な部族だ。冬、彼はオーバーを着込んでいる。バローダ地方の冬は、我々は半袖で過ごせるが、彼にとっては寒いらしい。星を見ながら彼は云う。「我々は星をながめる。大宇宙の中にいる。しかし体内のばい菌から見ると、我々の身体も立派な宇宙なのかも知れない」 またヒンズー教について云う。「ヒンズー教に神は多いが、全ての神は、一つの大いなる神の一面を示している。従ってどの神を信じても結局同じだ」 これらの形而上的な話を、ガードマンが寒さに震えながらするところが面白い。彼等は子供の頃からこの類の話をしているらしい。日本人もインド人の中に長く居るとこの傾向に染まる。

ボンベイで建設資材の到着を待っていた時のこと、夜、ホテルで一人だった。寝つきが悪いが読む本もない。待てよ、と机の引出しを開けてみた。予想通り備え付けの英語の聖書がある。私は英語が大の苦手である。しかしここには英語の聖書しかない。しぶしぶ目を通し始めた。まずマタイ伝。アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図云々。たちまちまぶたが重くなり、最初の14代を読まぬうちに寝てしまった。

次の日にも船は来ない。その夜、またその聖書を開いた。系図は御免だ。そこで従来気になっていた箇所を開いた。山上の垂訓、八福の教えの冒頭、「幸福なるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり」である。なぜ「心の貧しき者」が幸福なのか。我々が信仰を持つのは、「心豊かな者」になる為ではないのか。英語の聖書には「心の貧しき者」のことを「the poor in spilit」と書いてあった。これなら私の低い英語力でもよくわかる。スピリットといえば、大和魂や開拓者精神の「魂」や「精神」に当たる言葉だ。心というよりは心を支える気力のことだろう。イエスの云われた「心の貧しき者」とは気力を失い絶望的な思いに陥っている者に違いない。また「天国」についても予想が外れた。私はてっきりパラダイスと書いてあると思っていたのだが、「the kingdom of heaven」となっていた。へヴンと言えば神のおられる所だ。そこが「心の貧しき者」のものということになる。結局この章句は「気力を失って絶望している者にこそ神はついておられる」という意味らしい。

さてそこで「心の貧しき者」の実例に思い至った。息子を失った時の私の母である。私の兄は終戦直後予科練より生きて帰ってきた。我が家は兄を中心に戦後の混乱期を乗りきることができた。母はこのことを神の恵みだと常々語っていた。ところが、一家の生活が軌道に乗った時点で、警察官になっていたその兄が突然殉職してしまったのである。この後1年程、母はふさぎがちでしきりに聖書に目を通していた。この期間、母は正に「心の貧しき者」だったのだと思う。八福の教えは、毎日を平穏に過ごしている者達への垂訓などではなく、気力を失って神の助けを必死に求めている者へのイエスの応援歌だと思う。

以上のことは30才代に考えた話。その後、50歳を越えて網膜剥離を患った時、「心の貧しき者」と「心豊かな者」について再び考える機会があった。私の右の目にはシリコン板が埋め込まれている。その手術の時、思いもかけず多くの「心豊かな者」を見た。同病の患者達である。彼等は自分自身が重症で失明の危機にさらされているのに、これから手術室に向かう患者に、声を掛け、手を取り、心から励ましていた。その様子は正に心豊かな振舞いに見えた。 結局人間は「心の貧しき者」になって始めて隣人の痛みがわかる。隣人を労わる行為に自ずから真情がこもる。それゆえ「心の貧しき者」が「心豊かな者」に見えるのだろう。

ところで最近、英語/現代中国語対訳の聖書を見る機会があった。その聖書では、この箇所は「虚心的人有福了、因為天国是他們的」となっている。「虚心的人」とはよく言ったものだ。日本では、「虚心」は「先入観をもたない」の意で使われることが多いが、中国語の「虚心的人」は、文字通り、失意のあまり「心が虚ろになった人」を指していると思う。 また先日、独学で古代ギリシア語を修めたという岩隈直という人物のことを知った。彼の翻訳によると、この一節を「幸福だ、霊において貧しい人たちは、なぜなら天の国は彼らのものだから」と翻訳している。スピリットに当たる言葉に「霊」の字を使っている。しかし「心」より「霊」の方が適当だろうか。

16世紀末の天草版ドチリナ・キリシタンには「スピリツ(原文のまま)の貧者は天の国を持つ」と書かれているという。この頃は、まだスピリットの訳語を「心」とも「霊」とも決めかねていたのだろう。 明治以降の聖書翻訳者達は、その中には古代ギリシア語に通じた人もいただろうが、おしなべて「心」を使っている。彼等も「霊」という言葉を最初に思い浮かべたと思う。しかしあえて「心」と云う言葉を使い通してきたのは、「心」の方がより広い意味をもち、イエスの教えの本旨に近いと考えたからだろう。 ちなみにQ資料によると、「心の」という部分が無い。単に「貧しき者」となっている。しかしイエスはマタイ伝にあるとおり「心の貧しき者」と言われたと思う。このほうが神に救いを求めている者を、より広く包含している。日本聖公会の祈祷書にある「なやめる者、悲しめる者、病める者、貧しき者、その他、災いに会える者」は全て「心の貧しき者」に違いない。

また最近、D.Bivin、R.Blizzard,Jr.共著の「イエスはヘブライ語を話したか」という本を読んだ。著者は、マタイ伝のオリジナルはヘブライ語だったと主張している。ヘブライ語では「心」をルーアッハと呼び、英語のスピリットより深い意味を持つらしい。「心の貧しき者」はイザヤ書66章第2節の「苦しみまた心をいためる者」の省略形だという。この部分を英語の聖書で確認すると「スピリットにおいて貧しく打ち砕かれた者」になっていた。 「天国はその人のものなり」という部分も、ヘブライ語に直すと「神の国はその人達により成り立っている」という意味になるという。 「幸福なるかな」についても書きたいことがあるが、くどくなりそうなので、今回はこの辺で終わりたい。インドについて書くと、とかく理屈っぽくなってしまう。

 

公開日:
最終更新日:2016/02/22


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