貧乏エンジニア漫遊記

大手造船会社エンジニアが世界を股に掛けた、面白奮闘記です!

27.韓国編(1)

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貧乏エンジニア漫遊記
韓国編(1)

韓国には度々行っているが、最初は1976年7月で、この時は2年半滞在した。当時は朴政権時代で、セマウル(新生活)運動が成功し、農家の屋根が一斉に赤瓦に代わったばかりだった。ソウル中心部には高層ビルが建ち、韓国人はようやく自信を持ち始めていた。現代、三星などが大企業に育ち、労働者の低賃金を武器に海外に出て行こうとしていた。

政権は安定していた。しかし夜間外出禁止令と言う名の戒厳令がしかれ、白米の飯は禁止されていた。現在と違い指導者達は戦前を経験している世代で、彼らは日本人に対して「憎い憎い」の一点張りではなく、一定の評価はしていた。昨今の韓国人の日本人への激しい恨みは、戦後の教育によって醸成されたものだ。

さて赴任前には、厳しい反日感情を予想していたが、個人的には一度も不愉快な目に合わなかった。日本では知られていないが、韓国人は客とみなした人間には極めて丁寧に接する。韓国で仕事をするには、客とみなされるか、親韓派とみなされる必要がある。ここで私の経験を幾つかお話したい。

当初、ソウル市内に慣れるため、あえて自家用車を使わず、市内バスで通勤していた。朝のバスは混んでいる。身動きできない状態で立っていなければならない。乗り過ごすといけないので、窓越しに必至に外を眺める。ハングルで書かれたバス停の名を小声で読んでいたら、座っていた20代の男が突然立ち上がった。席を譲ると言う。いくら辞退しても是非座ってくれと言う。日本で20代の青年が30代の男のために席を譲るだろうか。全く戸惑った。事務所に着いて、韓国人の社員に尋ねると「それは韓国語に馴染もうとしている日本人を見て、好感を抱き、客とみなしたからだろう」と言う。この類の過剰の親切には度々出会った。

私の家族を韓国に呼んだ時のこと、大きな床式レストランでブルコギ(焼肉)を食っていた。息子が大声で「韓国の料理は本当に美味しいネ」と叫んだ。彼らの最も嫌う日本語で。ハッとして周囲を見回した。はたして周りの客全員が我々を見ていた。意外にも、全員が満面の笑顔だった。これも、韓国(料理)を心から誉めたので親韓派と見なされたのだと思う。

さて、心胆を冷やした事もあった。ミッドウェイという映画を見ていた時の事。映画館は満員だった。ストーリーの半ばで、米軍機が日本軍の空母数隻を叩く。館内は拍手の渦だ。中には立ち上がって手を打っている者もいる。終わり近くに、今度はゼロ戦が米軍の空母一隻を襲うと、観客は固唾を飲み、館内は静まり返った。韓国人の日本に対する思いを、観客全員が吐露していた。

また、パゴダ公園を歩いていた時の事。レリーフを刻んだ石碑が立っている。最初は何のためか分からなかった。よく見ると、戦前の日本の警察官が朝鮮服の一般民衆を拘束している図であった。これを見て、いっぺんに気が滅入った。回りを見ると、韓国人は一斉に私から目を逸らした(ように感じた)。この石碑をつくづく眺めている人間を見て、これは日本人だと感じたに違いない。そして反応を待っていたのだろう。こちらが溜め息をついて天を仰いだので納得してくれたのだろう。今にして思えば、街中をウロチョロしても、大過なく過ごせたのは幸運だった。

今の日本の若者は、サッカーのワールドカップでわかるように、韓国人を全く差別していない。シニアの私にも差別意識はない。それには次のような経験が有ったからだ。大阪で現地工事の監督をしていた時、正月に仕事をしなければならなくなった。とにかく必死である。冬休みで作業者がいない。大阪中のつてを求めて、やっと一組の作業者が来てくれた。これが全員在日韓国人だったのである。正直言って最初は、まともな仕事ができるか否か危ぶんだ。ところが彼らは、技量は日本人に遜色なく、連日深夜残業をして頑張ってくれた。仕事は無事完了した。最後の日、親方が一升瓶を下げて来た。私も作業者に混じって飲んだ。和気藹々の打ち上げになった。親方が言った。

「監督さん、できたね。間に合ったね。本当に良かった」

このとき以来、私は親韓派になった。

公開日:
最終更新日:2016/02/22


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