貧乏エンジニア漫遊記

大手造船会社エンジニアが世界を股に掛けた、面白奮闘記です!

32.米国編(1)

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氷心随筆集

アメリカ編(1) 

私の対米感情、アメリカ人のもてなし

私は昭和13年生まれ。終戦は国民学校(小学校)1年生の時だった。鬼畜米英のスローガンを浴びた最後の小学生だ。そして引揚げ。アメリカ人との最初のかかわりは、駆逐艦を武装解除した引揚船で鹿児島に着いた時だった。

検疫所で、引揚げて来た女性が一列に並ばされる。初めて見るアメリカ兵が一段高いところから全員を見渡している。部下の日本人数人が噴霧器で女性全員の髪に白い粉を吹き込む。DDTだ。DDTは今では毒薬とみなされている。髪が白くなった母と姉を見て、そのアメリカ兵に、子供心ながら、ほとんど憎しみに似た感情を抱いた。

次は中学校1年生の時だ。東京は上野の広小路で、当時はまだ走っていた路面電車の停車場で、たむろしていたその筋のネーチャン達が、ジープで通るアメリカ兵を黄色い声で誘っていた。この光景は頭に焼きついている。他の子供と違い、私はアメリカ人に良い印象を持てなかった。

高校生になって、スタインベックの“怒りの葡萄”を読んだ時には、別のショックを受けた。当時、マイカーという言葉はまだ無い。玉野市には、個人所有の自動車は一台も無く、往診の医者がスクーターの後席に看護婦をチョコンと乗せて走っていた程度だ。“怒りの葡萄”によると、失業者一家がオンボロながら自分のトラックで西部に向かうのだ。
「なんと、アメリカでは失業者が自動車を持っている!」 この時、あらためて、日本はとんでもない国と戦争をやらかしたものだと思った。

さてアメリカ人と仕事で付き合いだしたのは、造船会社に就職してからだ。最初の相手は、船主の石油会社から派遣された60歳がらみの監督だった。私の英語がつたなくても、一生懸命に話せば、辛抱強く付き合ってくれた。この時以来、次第にアメリカ人に好感を持つようになった。

本格的にアメリカ人と付き合いだしたのは1979年1月の渡米以来のことだ。この時、技術提携先のR社を視察した。最初に驚いたのは、研究部長K氏の自宅の夕飯に招待された時だ。長テーブルの向こう端にK氏が座る。こちら側の端は私。その間にK氏の家族と私の連れの日本人達が向かい合って並ぶ。スープが皆の皿に注がれる。K氏が「さあ」という身振りをした。私はスプーンに手を伸ばそうとした。その瞬間、K氏とその家族は、手を胸の前で組んだのである。K氏が祈る。英語が得意でない私にも、単語は散発的に聞き取れる。K氏の祈りは「主の祈り」なのである。英語で唱和することができなかったのは残念だった。スープの後、大きなローストチキンが出てきた。見ていると奥さんでなく家長のK氏が大きなナイフで切り分ける。家族たちはそれを神妙に見ている。この光景は、メイフラワー号の移住者を思わせるもので、これが、アメリカの本物のクリスチャンの家庭だと感動した。これを皮切りに、多くのR社の幹部や現地工事務所の所長宅に招かれた。

アメリカ人は相手を友人と決めたら、そのホスピタリティーは半端ではない。これは一再ならず経験したことだが、アメリカ人の家庭に招待されると、まずミニバーで軽くいっぱいやる。それから家中を案内されるのだ。道具箱などの置いてあるガレージやクリスマスツリーが埃をかぶっている屋根裏まで見せる。そのお返しで、彼らが日本に来た時には、こちらも、我が賎家に招き、テラスのサボテン温室や庭の蜜柑の木の下にまで案内した。アメリカ人は友人になると、実に愉快な人達だ。

公開日:
最終更新日:2016/02/22


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