貧乏エンジニア漫遊記

大手造船会社エンジニアが世界を股に掛けた、面白奮闘記です!

38.トルコ旅行記

1.出発
1999年12月4日より10日間、H.T.社の観光ツアーに参加、家内同伴でトルコを旅行した。関空発着、全て込みで一人当たり119,800円也。

12月4日、11時30分関空集合。添乗員は S さん。20才代の太めの健康美人。同行者30名弱。機上約13時間。夕刻、イスタンブール空港到着。ガイドのシベル嬢が出迎え。シベル嬢は小柄、瞳は茶色。日本語は達者でユーモアに富む。新市街丘頂上のホテルで一泊。新市街と言っても数百年は経ている。ホテルは古く、湯の出は悪い。部屋は湿気ている。格安料金のツアーなので観念する。

2.ガリポリ
12月5日、快晴。ホテルを出て、バスでマルマラ海北岸を回り、ガリポリに出る。そこからフェリーボートでダーダネルス海峡を渡る。ガリポリは、第一次大戦でトルコ軍が英軍のオーストラリア部隊を全滅させた所だ。シベル嬢は誇らしげに説明する。しかし、オーストラリア人には痛恨の場所だ。たまたま、この旅行に来る直前、日本でタスマニア出身の女性(白人)と食事を共にした。彼女もガリポリを数年前に訪れたが、声も出なかったという。今は冬ながら陽光燦燦、一面オリーブ畑で大戦の跡は何もない。

ダーダネルス海峡はプルターク英雄伝の昔から名高い。最初はペルシアのクセルクセスが、ギリシアを撃つべく、仮橋でアジア側からヨーロッパ側へ渡った。次に船でアレキサンダーがヨーロッパ側からアジア側へ渡った。海峡の両側はゆるやかな丘陵で、一望オリーブ畑だ。やがて待望のトロイにつく。

3.トロイ
トロイの丘ヒサルリクの遺跡は有名な割には小規模だ。都市というよりも城砦というべきだ。遺跡の直前に最近作った木馬がおいてある。観光客向けのあらずもがなの物だ。これは、コペンハーゲンの人魚像、シンガポールのマーライオンに並んで“世界三大期待はずれ”の一つというべきだ。

遺跡自体は最下層を第1市とし、順次重なり第9市まである。これらが発掘の度合いにより少しずつ顔をだしている。数日かけて見ないと、どれが何時の物やらわからない。シュリーマンが“プリアモスの宝”を探し出したポイントを見た。神話が歴史の反映である事をシュリーマンは証明した。この功績は誰も否定できない。しかし“プリアモスの宝”を発見した経緯はいささか胡散臭い。

帰国後、念の為このことを調べてみた。遺構や陶器を発見した過程は、穴掘人夫が見ているから問題ない。しかし、シュリーマンの自伝によると、肝心の“プリアモスの宝”は、人夫に隠れてシュリーマン夫妻のみで取り出した事になっている。後で発覚した事だが、夫人はその時期ギリシアにいて現場にいなかった。つまり“プリアモスの宝”の証人はいないわけだ。

シュリーマンは、トロイをはじめエーゲ海周辺で、なんども発掘を行っている。しかしその発掘品は真贋入り混じっているらしい。最近の伝記によると、シュリーマンは出土品について、発掘場所を偽り、発掘日時を偽り、小物についてはコピーを幾つも秘密に作らせ、盗掘品を裏で買いまくり、自身も盗掘している。「ヒサルリクにトロイがあった」というアイデアそのものも、共同発掘者より盗んだものらしい。

4.ベルガマ
12月6日、快晴。ペルガマ遺跡を訪ねる。山頂のアクロポリスは一見に値する。特に西の斜面の扇形劇場跡は山の凹曲面を利用して作った雄大なもの。一万席以上あったという。古代ローマ人のエネルギーにあらためて驚く。劇場の背面にはハドリアヌス帝がトラヤヌス帝の為に建てた神殿跡がある。トラヤヌス帝といえばローマ帝国を最大版図に広げた大皇帝だ。昔は素晴らしい神殿だったに違いないが、今では大理石のコラム列と敷石道があるばかりだ。幾度もの地震で崩れ落ちた大理石の建材は今でも雑然と地面に転がっている。

また、さらに古いゼウスの祭壇跡というのもある。この祭壇は、丸ごとドイツに持ち去られ、基段だけが残っている。シベル嬢は女性ながら愛国心に富み、このドイツのやり方に悲憤慷慨していた。図書館跡もある。例のアントニオがクレオパトラの気を引くために、ここの蔵書を、アレキサンドリア図書館にゴッソリ贈ったらしい。どうもこの辺では艶話といえども世界史的な規模になってしまう。

遺跡の入り口に土産物屋のバラックが並んでいる。日本人観光客は、ここの客引きにろくな言葉を教えていない。彼等は次のような日本語を使うのだ。

「カタガタ マタレヨ」
「ミルダケタダヨ」
「モッテケドロボー」
「キレイナネーチャン」、これは六十婆さんに言う。
「サラバジャー」、これは冷やかしの客に手を振って言う。

5.アスクレピオン
平地には大精神病院アスクレピオンの遺跡がある。精神病院だけあってストレス除去の設備がととのっている。大小の浴場、運動場、瞑想室、小劇場などだ。傑作なのは地下道だ。一定間隔で天窓が付いている。患者は地下道を走る。同時に看護婦が地上を走り、天窓から患者を励ますと言うのだ。運動、音楽、瞑想、睡眠の他に薬草も用いられたらしい。これなら患者も治って不思議はない。またこの病院は次の二つのモットーを持っていたという。これは現代の私立病院にも通じる。

貧乏人は受け付けない
治る見込みのない者は入院させない

医者にとっては真に魅力のあるモットーだ。まず問診で貧富を判定する。次に、選ばれた金持ちだけに長い石畳の回廊を走らせる。その中で完走者のみ入院を許したらしい。出土品の絵がそれを物語っているという。

6.トルコ石の店
この日の観光が終わるとトルコ石の店に連れて行かれた。このツアーは、どう考えても、旅行社にとって採算割れだ。従って旅行社は特約土産物屋のリベートで元を取るとは予想していた。このトルコ石の店がその第一弾に違いない。生憎我々は値切り専門だ。そう簡単には飛びつかない。この店では、小品を買いながら、トルコ商人の出方を研究した。

小生 「高ければ買わないよ。俺は貧乏人だ」
店員 「マーそう云わないで。社長には特別に一割五分引きます」
小生 「俺は社長じゃない。高すぎる」
店員 「お兄さんは玄人。負けました。旅行社のコミッション分、二割五分引きます」小生 「全然話にならん。もうやめた」
店員 「私死にそう。マネージャー助けて!」 ここでマネージャー登場。
マネ 「私の権限で更に一割引く。これが最終価格です」
小生 「やめた。サヨナラ」 欠伸をして出口を見る。バスの出発時間が近づく。
マネ 「店から皆出て行きはじめた。やけくそだ。更に一割引く」といった具合だ。

横で家内が買いたそうにウズウズしていたので、結局三分の一までにしかならなかった。金を払いながら最後の会話をする。

小生 「高い買い物を買わされた。これで晩飯が食えなくなった」
マネ 「ははは、これで私は晩飯にありついた。有難う」

見事に切り返された。敵ながら天晴れだ。

7.エフェソス
12月7日、快晴。エフェソス遺跡にいく。新約聖書のエペソ書で、パウロは「妻たるものよ、主に従うごとく己の夫に従え」と言っている。エペソとはこのエフェソスのことだ。ローマ時代アジア州の州都だけあって規模はすこぶる大きい。ローマを現代の東京に例えれば、エフェソスは福岡にあたるだろう。議事堂、神殿、浴場、劇場、図書館、公衆トイレ、市場、娼館など揃っており、恐らく飲み屋などもあったことだろう。図書館跡は、観光用に入り口正面だけが復元されている。ほとんどの建物跡は円柱が立っているだけ。それも転がっていたものを立て直したらしい。円柱は見事だ。中学校の美術の時間で習ったコリント式、イオニア式、ドーリア式のすべてがある。材質も白ばかりでなく色物の大理石があり、御影石もある。娼館の跡には建物は無く、ただ地面の石に女性の足型が線彫りしてある。それが目印だったらしい。この遺跡を見終わってバスに乗り込む前のこと。乗り口近くで、いつも最後尾になる女性を、その亭主が待っていた。シベル嬢が「まだ?」という顔つきで亭主を見る。そこで次の会話。

亭主 「心配だ。ローマ人が女房を娼館にさらって行ったのかしら」
シベル「大丈夫、ローマ人も人を選ぶョ」

8.マリアの家
同じ日に、エフェソスの裏山の聖母マリアの家に行った。頂上近く、浅い谷間の木立ちの中にレンガ積みの家がある。それがマリアの家と呼ばれ、教会になっている。礼拝堂は10人も入れば一杯になる。庭は整備されているが建物は質素だ。ここには、ひたすら祈って悲しみに耐えた年老いたマリアがいた。ところが庭の入り口には、若い乙女のマリア像が立っているのだ。また礼拝堂には、ラファエロ風の聖母子のイコンが掛かっている。場違いだ。ここにはピエタを置くべきだ。

9.パムッカレ
エフェソスの見物後、ローマ帝国随一の温泉場(療養所)だったパムッカレに向かう。この辺の平野では野菜を栽培している。畔にはポプラを植え、水は遠方から引いてくる。敦煌でも見たオアシス式栽培だ。やがて山塊地に入り、山肌は松林に変わる。バスも冷房から暖房へ切り替わる。松は日本のものより背が低い。住民は今でも薪を燃料にしているので、どの木も、手の届く範囲の枝は打ち落とされている。降雨量が少ないので下草も生えていない。

温泉水は、巨大な石灰棚の上を膜状にヒタヒタと流れている。棚は炭酸ガスとカルシウムが固体化して成長したらしい。山口の秋吉洞の底面が広がっていると思えばよい。規模は秋吉台全体くらいある。ローマの貴族達が湯に浸かりながら一杯やっている情景が目に浮かぶ。

パムッカレ到着直前、ネクロポリスと呼ばれるローマ時代の墓場を通過した。剥き出しの石の棺類が晒されている。ほとんどの棺に、ギリシャ文字の銘やレリーフが彫られている。大貴族の代々の廟もある。これらが日光の下で焼け爛れているのだ。その有様は、日本の高野山の湿った陰々たる雰囲気の対極をなしている。

10.アンタルヤ
12月8日、快晴。アンタルヤへ行く。 アンタルヤはトルコの南岸の代表的な都市だ。トルコでは、東北の黒海に対して西南の地中海を白海というそうだ。アンタルヤの近くに、ペルゲ、アスペンドス及びシデという三つの近接した都市の遺跡がある。どの遺跡にも神殿、議事堂、劇場、音楽堂、図書館、競技場、公衆浴場、市場、上下水道等が完備していた事がうかがえる。古代人の都市計画には全く頭が下がる。この辺まで来ると、大理石の遺跡にいささか食傷気味になる。同行者の中に「また石か!」とつぶやく不心得者がでた。

10-1.ペルゲ
ペルゲ遺跡入り口には崩れかかった二つの塔門がある。その奥に大理石の円柱が並んでいる。ペルゲの競技場は四分の三程が残っており、映画ベンハーの戦車競技場はかくやと思う。観客席は長円形で、ローマのコロッセウムとは趣が異なる。座席の下はいくつものアーチがあり、そこには選手の控え室や商店があったという。

10-2.アスペンドス、シデ
アスペンドスの見所は劇場。観客席は丘の斜面を利用している。2万人は入ると言う。観客席の最上段には、波形の屋根をもつ回廊がある。背面の壁も波形屋根の回廊も音響効果を考えて作られたらしい。2世紀末にこの技術があった事に驚く。保存状態がよく、今でも実用に使われることがあるらしい。シデの遺跡は海際。アポロ神殿の廃墟の向こうの海に日が沈む光景は印象的だった。シベル嬢に言わせると世界一美しい夕日なのだそうだ。

11.皮製品の店
この日は途中で皮製品の店に連れて行かれた。店に入るや否や、粗末なホールに通され、皮製品のファッションショウを見る。まず口上が入る。この店の皮革素材がヨーロッパに送られブランド物になるという。それからおもむろに、数人の男女のモデルが毛皮のコートを着て現れる。モデルが別嬪だから毛皮も良くみえる。ショウがたけなわになると、同行者の中から女性の一人を引っ張り出し、毛皮のコートを着せ、男前のモデルと腕を組んで歩かせる。日本人も進歩した。この臨時モデルが結構サマになっているのだ。店の者が大喝采を送る。ここに来て疑問が涌いた。このショウ代は誰が払うのか。結局観光客が別な形で払わされるのではないのか。この店では何も買わぬ決心をした。

売り場に入ると、店員が客に一対一で張りつき、日本語で迫ってくる。まず京都のH夫人が敵の餌食になる。店員がマダム、マダムと追いかけて、手の甲にキスをするのだ。H夫人はかなり高額の物を買わされた。次は高松のF夫人。先ほど臨時モデルになった女性だ。プロポーションも結構いい。そこにつけこまれて買わされた。その他の女性もつぎつぎに買わされていく。この店の毛皮は確かに本物だが値段は決して安くない。素材はよくても、縫製に不安が残る。確かに、欧米のブランド物の値段はべラボーに高い。しかし縫製がしっかりしていて、永く使えるから結局得と言われているのだが。

12.コンヤ
12月9日、コンヤにてメヴラナ博物館とカラタイ神学校に行く。 コンヤに到って初めてイスラム教国らしい文化に出会った。セルジュクトルコ時代はここが首府だったらしい。この町は、イスラム教の一派であるメヴレヴィー教団の本拠地である。この宗派は「踊り」に法悦を見出すという。多人数が天と地を指差して乱舞するらしい。シベル嬢が腰を振って見本を見せてくれた。

この教団の創始者メヴラナは13世紀のトルコの詩人だそうだ。彼の詩には「貴族も奴隷も、白人も黒人も、人間として等しく愛そう、云々」という21世紀にも通ずる文句があるという。自由、平等、博愛の精神は、中世にあっては稀有のことだとシベル嬢は威張る。 メヴラナ博物館には、メヴラナや他の高僧の棺が並んでいる。棺には番兵がついている。イスラム教の建物は、外観は立派でも内部は簡素なのが普通だが、このイスラム教博物館の内部はまことにカラフルだ。金銀の地に図案化された黒の模様が特に目を引く。カラタイ神学校は写真を撮っただけ。セルジュクトルコ時代の建物だという。青タイル張りの門は建築屋には有名らしい。

13.絨毯屋
この日の最後に絨毯屋に連れて行かれた。まずワインを持ってくる。無料で飲み放題だ。口当たりが非常に良い。そこで、客を酔わせて売りつける敵の魂胆に気がついた。この店でも店員が観光客に一対一でつく。絨毯を誰かが一枚買うたびに歓声を上げて拍手をする。客を煽って競争させる仕組みだ。店員の一人に厚かましいのがいて、これと見定めた女性客にしつこくすすめる。

店員 「オクサン金持ち。コレ買って」
女性 「こんな高いモン買うたら、日本にいる主人に叱られるヮ」
店員 「そんなら離婚して、これ買ってョ」
女性 「アホ、絨毯一枚で離婚せえ云うんか」
店員 「ダンナと別れて、僕と結婚すればよい」

一瞬その女性は怯んだが、離婚は思いとどまった。当たり前だ。絨毯を買う金も亭主が稼いだ金だ。

カッパドキア
12月10日、待望のカッパドキアへ行く。カッパドキアはアナトリア高原にある。遠望の3500メートル級の山はすっかり雪をかぶっている。カッパドキアは思っていたよりも広い。日本の一つの県くらいはあるのではないか。洞窟群は随分あるらしいが、旅行社の選んだカイマクル、ギョレメ、ウチヒサールの3箇所のみに行く。一部の洞窟には今でも生活者が居る。洞窟とレンガ家屋をつないだ半洞半建の住宅もある。

最初にカイマクルに行く。これは地下コンドミニアムとでもいうべき所。9層の蟻の巣状の迷路になっている。ここは、日本ではキリスト教徒の隠れ家として知られている。実際は紀元前1500年に既にヒッタイトが住んでいたという。天井への換気坑と井戸がエレベーターシャフトのようにつながっている。一本の井戸に各層から釣瓶を下ろせる。また、侵入して来る敵を回転岩で遮断できるようになっている。礼拝堂、穀物貯蔵所、ワイナリー、集会所、居間などが混在している。トイレが見当たらない。普段は外で用を足していたらしい。

ギョレメでは奇岩と人工の洞窟群を外から見ただけ。有名な洞窟教会のフレスコ画は時間がなくて見損なった。これらは、シルクロードの終点近くという点で、東の敦煌の彫刻に匹敵する。敦煌では洞窟壁画を充分見た。それだけにギョレメの洞窟絵画を見て比較したかった。

ウチヒサールも奇岩だけ。移動中に見晴らしの良い所に出た。ここの岩はキノコ状だ。そのキノコが数百本立っている。かつて近くの3500メートル級の山が噴火して、一帯が火山灰で覆われた。風雨によって侵食され、鉄分が多い褐色の硬い岩が‘傘’のように残り、その下の溶け易い白い岩が‘柄’のように残った。かくして‘岩石キノコ’が出来上がったというわけだ。 柄の太い立派なキノコには、根の部分にドアがついている。柄の部分を上へ上へとくり抜いて、住居や鳩小屋を作っていったらしい。上部に小穴を開け通風をはかっている。 昼食は洞窟レストランで摂る。雰囲気は変わっているが味は平凡。

14.陶芸工房
この日は、陶芸の工房に連れて行かれた。この辺では赤色の陶土が採れる。イスラム模様の陶器が有名らしい。工房主はガーリップ先生という。シベル嬢によると、この先生は人間国宝級で日本人の弟子もいたという。チューリップ模様の絵皿を一枚買った.孫の代に値打ちが出るかも知れない。ついでにいえば、道沿いのバラックの土産物屋で、絵柄が面白いので1枚1ドルの絵皿を大量に買った。これは運ぶには重かったが、日本に持って帰ると、一箱15ドルのチョコレートより人気があった。この日の夜は、アンカラからイスタンブールまで夜行列車だった。広軌ではあるし、二人用のコンパートメントは快適だった。パリからヴェネチアまでのワゴンリー列車もよかったが、この夜行列車はそれ以上だ。部屋毎に湯が出るし、冷蔵庫の飲み物は飲み放題なのだ。ただしイスラム国の公共機関なのでアルコールはない。

15.ウシュクダラ
12月11日、快晴。朝、イスタンブールに着く。 駅から旧市街まで、バスはウシュクダラ地区を通って行く。江利チエミが唄った「うすくだら」はここの民謡らしい。クリミア戦争時、ナイチイゲールのいた野戦病院は、戦場のあったロシアではなく、トルコのウシュクダラにあったらしい。日本版偉人物語では、彼女がクリミア戦争で“敵味方の別なく兵士を看病した”ことになっている。しかし実際は、彼女が看病したのは味方の兵士ばかりだったのだ。ナイチイゲールの功績は、“敵味方の別なき看病”ではなく、看護婦の社会的地位を向上させた点にあるらしい。当時賎しい職業とされていた看護婦に、貴族出身の彼女が身を挺してなったことは、イギリスの社会に大きな影響を与えたらしい。

16.ブルーモスク
イスタンブール市内では、まずブルーモスクに行く。6本の尖塔が立っている。普通は2本か4本だ。王が建築士に「金の塔を建てろ」と言ったのに、トルコ語で「金」と「6」との発音が似ているので、予算のない建築士が故意に聞き違えたのだという。内部に入ると、そのカラフルさに驚く。上部の窓が全てステンドグラスなのだ。ただ照明装置はいただけない。高いドーム天井から頭上まで多数の鎖を下ろし、それに大小のワッパをぶら下げ、そのワッパに多数の小燭台をのせている。信者が夜にコーランを読むためだという。この鎖とワッパが目障りだ。しかし、灯油は少なくてすむ。排気窓の位置が工夫され、天井に油煙汚れは全くない。

アヤソフィアモスクは外観を見ただけ。内部は観光コースに入っていない。日光東照宮へ行って内部を訪れない類だ。格安ツアーなので諦める。

17.地下宮殿
地下宮殿には実際に降りてみた。天井は立派なコリント式の柱で支えられている。この宮殿は、貯水池として作られ、最近まで水が満々と湛えられていたとのこと。007の“ロシアより愛を込めて”の舞台になった所だ。ビデオで見るより実物の方が迫力がある。

18.トプカピトプカピ宮殿は修理期間中だった。肝心の陶磁器のコーナーは立ち居入り禁止と来た。時間も短く、宝物館の4室しか見ることができなかった。スプーン職人のダイアモンドなるものを見たが、ロンドン塔にあるイギリス王室のダイアモンドに比べるてイマイチ。エメラルドの短剣も期待していた程ではなかった。傑作なのはマホメッドの髭だ。ピンとした一本がガラス容器の中に入っている。本物だろうが、イスラム教徒以外には興味がない代物だ。

19.グランドバザール
グランドバザールは立派。金銀を主体とした高級な専門店街だ。タイのサンデーマケット、韓国の南大門、上野のアメ横などと違って、生活臭は薄い。銀製品はあまり値切れない。土産にスプーン2セットを購入。これは値段の割に好評を博した。

20.ガラタ島
この日の夕食はガラタ塔で摂る。ベリーダンス付だ。ここのベリーダンスは、カイロやニューデリーで見たものには及ばない。ダンサーがやたらに足を上げる。腰の振動数が足らない。見物人をして唸らせるものがない。ガラタ塔は明治の快男子山田虎次郎ゆかりの地だ。日露戦争の時、彼が雇ったスパイがロシアの黒海艦隊を見張っていた。ロシアの軍艦は商船に偽装して通ったが、その情報は逐一日本に送られた。ホテルは五つ星のマルマラホテル。金角湾を前に旧市街を望む最高の位置だ。気障なようだがスレイマン大帝の気分になる。ブルーモスク、アヤソフィア寺院、トプカピ宮殿などが夕日を背にシルエットで浮かぶ。旅行社の作戦か、ホテルは日を追うほど良くなった。

21.海峡クルーズ
12月12日、快晴。午前中はボスフォラス海峡クルーズ。メフメット2世がコンスタンチノプールを攻略する際、山を越えて船を金角湾に入れた所を見た。山越えで船を運ぶアイデアはギリシアに前例があるらしいが、それによって世界史を変えたことを思うとメフメット二世の果断さを賞賛せざるを得ない。

22.帰国
午後イスタンブール発。12月13日、昼前関空到着、帰宅。

追記:
1. トルコはハイパーインフレ中。100円=50万リラ。
2. トイレのチップ=10万リラ。
3. 学卒初任給は7~8万円程度。中流家庭で学生2人の子供がいるとイスタンブールでは50万円/月は掛かるという。下級公務員給料は2~3万円。田舎ではこれでやっていけるらしい。
4. トルコ絨毯はイランやパキスタン並み、つまり一流。最近は、織り糸数をインチ当たりでなく、センチメートル当たりでいうらしい。
5.トルコ人は、戦前の日本人が明治天皇を尊敬するように、近代トルコの父ケマル・パシャを尊敬している。ケマル・パシャは、士官学校時代に山田寅次郎について日本語を習っている。

参考文献(この旅行の前後に読んだ本)
・図説、イスタンブール歴史散歩   鈴木菫著 河出書房新社
・古代への情熱             シュリーマン著 新潮文庫
・シュリーマン              デイヴィド トレイル著 青木書店
・オスマン帝国衰亡史         アラン パーマー著 中央公論社
・ローマ帝国衰亡史          ギボン著 ちくま学芸文庫
・イスタンブールを愛した人々     松谷浩尚著 中公新書
・個人旅行‘トルコ’           昭文社
・アレキサンダー伝           A.ウェルゴール著 角川文庫
・コンスタンチノプールの陥落     塩野七生著 新潮文庫

公開日:


Message