貧乏エンジニア漫遊記

大手造船会社エンジニアが世界を股に掛けた、面白奮闘記です!

39.敦煌/西安旅行記

平成11年5月24日出発。阪急トラピックス社企画のツアー「シルクロードの夢はるか、西安・敦煌五日間」に参加した。

朝8時55分、関西空港に集合。添乗員Yさんに会う。Yさんはキビキビしたユーモアに溢れる女性。この旅行中参加者に無駄な金を使わせまいと必死になってくれた。

10時55分、日本エアーシステムJD237便で出発。3時間半で西安空港に到着した。

空港で中国人ガイド寥さんに紹介される。可愛らしい小柄のお嬢さんだ。用意されていた観光バスは、日本の昭和40年代の代物。空港から西安市内に向かう。小麦畑の中を5分ほど走ると、ミニ古墳がある。寥さんが初めて声を出した。
「あれが周文王の墓です」
いきなり史記の世界だ。頭の中で古い知識を紐解いていると、今度は泥水川の橋を越える。川幅は岡山の百間川ほどだ。
「これは渭河です」
寥さんはさりげなく言う。文王が大公望に出会ったのはこの河に違いない。空港から市中心部までの平凡な景色の中にも歴史が詰っている。

市内の要所に花がある。主として薔薇。3度目の訪中で、まともな花壇をはじめて見た。中国も余裕が出てきたのだろう。最初のポイントは明代にできた主城門だ。入口と出口の中間に幼稚園の運動場ほどの石畳の広場がある。ここで当時の入国審査が行われたらしい。観光客が適当数集まると入口扉が開かれ、羽衣の別嬪が30人ほど出迎えてくれる。金を払った観光客だけが入場を許される。入場すると入口扉は直ちに閉じられ、別嬪の踊りが始まる。これが熱烈歓迎と言うわけだ。また入場者には唐時代のダミーの通門許可証と金キラの鍵が渡される。次いで記念写真をとる。1枚千円也。その後、入場者は出口より市内に放出される。また次の観光客のために、同じ行程が繰り返される。甚だ合理的だ。金を払わない者は別の門から熱烈歓迎なしに市内に自由に入れる。

次のポイントは大雁塔だ。三蔵玄奘が西域から帰って仏典を翻訳した所だ。一度地震に遭って再建されているが、結構は唐代のまま。中国式のゴテゴテ感はない。茶色の尖塔は中央に聳え、紅白の花壇、樹木と附属建物が左右対称に配置されている。伽藍全体が引き締まりスマートだ。空海や最澄もこの伽藍に感激したことだろう。

この日の最後の見所は陝西歴史博物館だ。初唐の則天武后時代の出土品は圧巻だ。王族の墓室の壁面を剥ぎ、この博物館に保管している。数百枚のオリジナルの壁画がパネル式に引き出せるようになっている。その一枚々々が、焼失した法隆寺の壁画や高松塚古墳壁画以上の物なのだ。章懐太子の墓の“東ローマと高句麗からの使節の図”は日本の社会科の教科書にもよく出てくる。章懐太子、懿徳太子、永泰公主等はいずれも則天武后の身内で、しかも彼女に殺された人達である。

この博物館の鼎のコレクションもすばらしい。「鼎の軽重」を問われた周の忠臣が憤ったというあの鼎である。その他唐三彩の馬や駱駝もあるが、これは台湾の故旧博物館のものや、日本の博物館のものに比べて見劣りする。また一点だけだが唐の秘色磁盤なるものがある。これは茶色がかっており、北宋の耀州窯の青磁より劣る。

この日の夕食は27種類の餃子料理とディナーショウというふれ込みだった。餃子については期待が外れる。たしかに27種類出たが皮が厚くてまずい。しかし餃子発生の地の料理なので文句は言えない。ディナーショウは一見の価値あり。構成は中国の古典舞踊、打楽器(太鼓、シンバル)、琴、チャルメラ、横笛の演奏なのだが、どれも水準以上。特に打楽器が面白い。曲目も「家鴨の口喧嘩」、「虎の歯軋り」など愉快なものばかりだ。
西安シェラトン大酒店宿泊。

5月25日。早朝敦煌に移動。寥さんに加えて、今度は男性の敦煌専用のガイド閻さんが付いた。午前中、近くの陽関を観光する。3人のガイド全員が、陽関のことを「羊羹」と発音する。笑いを堪えるのに苦労した。陽関は王維の詩「元二の安西に使いするを送る」で有名だ。

渭城の長雨 軽塵を悒す
客舎清清 柳色新たなり
君に勧む 更に尽せ一杯の酒
西のかた陽関を出づれば故人無からん

本物の陽関はとっくに砂漠に呑み込まれて消滅している。最近、崩れかけの狼煙台の近くで、古い矢尻が大量出土したので、その場所を観光用に陽関跡と決めたらしい。点々と連がっていたオアシスがここで途切れ、これから西は砂ばかりという地点だ。砂はやや赤みを帯びている。信じられないことだが、閻さんによると、この大砂漠が北宋時代に洪水にみまわれ、鉄分を含む砂が流れて来て、砂が赤みを帯びたとのこと。

陽関は常時砂嵐に見舞われている。訪れた時は、陽関にしては風が穏やかな方だったらしいが、マスクがないと砂で息もできなかった。また遠景の輪郭は舞い上がる砂でぼけて見え、平山郁夫の絵さながらだった。上記の詩は、王維が長安あたりで西方の陽関を思いながら作ったもの。実際に陽関に立って延々たる砂漠を眺めると、次の王翰の「涼州詩」が身にしみる。

葡萄の美酒 夜光の杯
飲まんと欲すれば 琵琶 馬上に催す
酔ひて沙場に臥するも 君 笑う莫れ
古来 征戦 幾人か回る

午後敦煌市博物館に行く。陳列物は、敦煌近辺の出土品が主。木簡、竹簡が多い。これらには、文字が隷書でビッシリと書き込まれている。これが達筆なのである。独断と偏見を恐れずに云えば、これら名も無い役人の書簡は、空海の”潅頂暦名”に充分匹敵する。また最近、草書は楷書と行書を経たものでなく、隷書から直接くずされたものであると云われだした。隷書と草書の多くの実物出土品を前にすると、その事が納得できる。

その日の夕食は「シシカバブとシルクロード料理」ということになっていた。前夜の餃子にも懲りず期待していたのだが、やはり考えがアマかった。シシカバブといっても、日本の焼き鳥と同じ大きさなのだ。中近東のデカい本物とは全く違う。味も焼き鳥の方が美味い。シルクロードというのに果物もでない。昼食も新疆料理ということだったが、なんの特徴もないつまらないものだった。

夕食後市内最大の市場に行く。概して韓国の田舎町の市場に似ている。敢えて見学するほどのものではない。ウルムチかカシュガルまで行かないと西域の市場の独自性は出ないのだろう。

5月26日。莫高窟へ行く。莫高窟は聞くこと久しい。ここの地形は、砂漠とオアシスの境界で、断崖になっている。4世紀から14世紀までの千年間に、この断崖に1000を越す窟が掘られたが、現存している窟は500弱らしい。その中で主な10の洞窟を見ることができた。莫高窟全体が東に向いているので、各窟の入口は東面にあることになる。各窟は意外に奥行きがなく、深さではインドのアジャンタの洞窟群には及ばない。しかし仏像仏画の保存状況はこちらの方が格段に良い。一つ一つの窟の中に、更に龕が穿たれ、仏像が置かれている。また、床以外の面はびっしりと仏画で埋め尽くされている。日本の仏像はみな線香の煙で煤けているが、ここのものにはそれがない。線香の跡はないが、ある窟には、ロシア革命時に逃げ込んだコザック兵の焚火の跡がある。 どの窟にも、入口の正面(つまり西面)の龕内に7体の仏像がワンセットで置かれている。中央に、主仏,その奥両脇に従者、前両脇に菩薩、更にその両脇に天王の計7体だ。龕の上部に樹の枝が描かれていると、主仏は釈迦だという。樹の枝が無いと、主仏は薬師如来か阿弥陀仏である可能性があるという。主仏によって従者と 菩薩の組合せも異なるらしい。

第275窟。現存する窟の中で最古のもの。正面の主仏を除いて、どの仏像もパキスタンのタキシラ博物館で見たガンダーラ仏像に似ている。南壁の一番入口側の像の顔立ちは、ギリシャ彫刻そのものだ。

第57窟。南壁の樹下説法図の左端の菩薩像は、日本でもよく知られている。金色も混じる極彩色は、いまだに変色せず、僅かな剥げ落ちはあるが、これによりかえって優美さと上品さを増している。一般の東洋の菩薩像や西欧のマリア像は、拝まれる対象として描かれている。それに比べこの菩薩像は、見ているだけで優しさに包み込まれる。(本文冒頭の絵)

第45窟。最も有名な窟だ。釈迦の両脇の苦虫顔の迦葉と優男の阿難陀は個性的で微笑ましい。そのまた両脇の観音菩薩と勢至菩薩像は、首を僅かに横に傾け、腰も僅かに振っている。優雅ではあるが肉感的だ。肌は雪の白、唇は薔薇の真紅。色は全く褪せていない。これほど艶かしい仏像は見た事がない。井上靖と平山郁夫が惚れ込んだというのも頷ける。更にその脇には天王像がある。この天王像は日本で見かける四天王像に似ているが、それとは異なる武神だと言う。日本の運慶作の天王像に比べると愛嬌のある顔だ。普段は、この第45窟は観光客には見せないそうだ。今回は旅行社の顔で見ることができたらしい。

第17窟。蔵経洞ともいう。例のスタインとぺリオが夥しい経典・書籍を発見した所だ。窟自体は大きくない。窟の中に更に横穴が掘られ、そこに仏典・書籍がしまわれていたという。入口にレンガを突き固め、カモフラージュに仏画を上描きしていたらしい。本当の発見者はスタインではなく、莫高窟の番人だったと言う。番人にはその値打ちがわからず放置していたらしい。スタインやぺリオは盗んだわけではなく、リーズナブルな値段(つまりメチャ安)で合法的に買ったということだ。お陰で敦煌は世界的に有名になった。フェノロサが日本の国宝級の美術品を持ち出したのと同じ手口である。

飛天とは日本でいえば天女のこと。その絵は殆ど全ての窟にある。飛天の顔、肌、羽衣等は、描いた当時はピンクだったらしい。そのピンクは、水銀の朱と鉛白の白を混合したらしく、千年の歳月の内に、黒や褐色に変色している。その変色した容貌は、地獄の亡者のようにも見える。窟によっては、寄進者や絵描坊主を、小さく、しかし数えるのが面倒なほど多く、何段にも並べて描いてある。離れてみると幾何学模様のようにみえる。

武神の像はどの窟でも本尊から数えて左右の4番目に配置されている。第322窟のものが一番立派だ。先に述べたように第45窟の天王像は参観者を怖がらせるべく顰面をしているが、第322 窟のものは、髭ははやしているが普通の人間像である。説話図五百強盗図や薩捶太子本生図など、日本でもなじみの説話図は劇画風に描かれている。遠近法や物の大小には拘っていない。中でも第428 窟の捨身飼虎図は傑作だ。母虎がなんともユーモラスなのだ。身投げした釈迦がなければ、どう見ても痩せ猫なのだ。

この日の午後は、日本映画「敦煌」のロケ・セットを見学した。どんな観光旅行にもつまらん場所はある。この旅行ではこのロケ・セットがそうだった。閻さんによると、エキストラとして、彼自身もこの映画出演したという。映画会社は、使用済みのセットを市に寄付した。これを閻さんは美談だと思っている。実際は、ロケ場をもと通りにする金が省けて、映画会社は喜んだに違いない。

鳴沙山の位置は莫高窟の裏手になるらしい。さすがは砂漠の本場だ。鳴沙山も鳥取砂丘などは比較にならない高い砂丘だが、それから西には同じような砂丘が無限に有る。

月牙泉は鳴沙山の前の池だ。周りが砂漠なのに、数千年間枯れず、埋まらず、場所も変わっていないという。埋まらないのは風の流れのせいだと閻さんは言う。それでも砂は若干は入るはず。埋まらないのは伏水流が底の砂をゆっくり押し流しているのだろう。

敦煌からロケ場までの道路の両脇の砂漠に点々と夥しい数の盛土(砂)がある。その裾には石塔が立っている。聞けば清代以来の墓地との事。この辺りでは、葬式は今も土葬で、清明節に家族が揃ってお参りをし、一年間に飛び散った砂を再び盛り上げると言う。この辺りを夜通ると、火の玉も飛び、青年の閻さんでも結構怖いらしい。月光の下、荒涼たる砂漠に、火の玉が飛び交う図は凄愴なことだろう。

この日の夕食は「敦煌料理」と言うことだった。これまでの二度の夕食が大したものでなかったので期待はしていなかった。はたして「敦煌料理」も普通の油炒めの類ばかりだ。品数は結構ある。筋っぽいが野菜は多い。砂漠の中のオアシスの料理としては最高のものなのだろう。陝西や甘粛は広東や福建に比べ食材の種類が少ない。このことを三日目にやっと理解した。

5月27日。早朝西安に空路逆戻り。西安空港は咸陽市にある。咸陽と言えば、秦・漢代の首都だ。市立博物館に期待していたのだが、先に見た西安の陝西歴史博物館に比べると見劣りした。考えて見れば、日本の卑弥呼以前の首都なのだから無理もない。この博物館には、漢代の兵馬俑が夥しく有ったが、俑一体の高さは40センチ程度。翌日見た秦の始皇帝の兵馬俑軍団に比べると取るに足らない。

続いて碑林博物館に行く。ここは年来訪れたいと思っていた所だ。中国書道史上有名な碑の多くがある。まず曽全碑がある。集字聖教序碑がある。蘭亭序碑がある。顔氏家廟碑と争座位文稿碑が並んで立っている。懐素(と思われる)の踊ったような草書がある。私の如き非学の者すら興奮する。書家が来れば半狂乱になるだろう。曽全碑は地下に埋まっていただけに殆ど傷んでない。日本で見る写真の通りだ。集字聖教序碑は懐仁が写し集めた王羲之の楷行の字を碑にしたもの。想像以上に優美だ。蘭亭序はチョ(衣偏に者)遂良が臨書し、それを碑に写したもの。台湾の故旧博物館に蘭亭序の臨書が数点あるが、このチョ遂良の臨書の方が日本で見慣れているものに近い。顔真卿の顔氏家廟碑は雄渾という言葉に尽きる。書の中の書だ。顔氏家廟碑と争座位文稿碑を比べれば、前者のほうが比較にならぬほど力強い。時間が無いので張旭の書は発見できなかったのは残念。しかし懐素の書をみると、張癲素狂の意味が良く分る。

また驚いたことに四書五経の全文を、後世の写本の乱れを防ぐため、幾(拾)枚かの碑に刻み込んでいる。辞典も永久保存盤として碑にしている(康煕辞典の様だったが未確認)。文化事業への中国人の志の高さに感銘した。もう一つ期待していたのは柳公権だ。柳公権は日本ではマイナーである。タイの建設現場で出会った中国人技師は、初心者が手本にするなら柳公権の書がよいと言っていた。柳公権の書の碑もあったが、写真で見るより、一つの字の一画一画が離れていて、まとまりが無いように感じた。

この日の夕食は「秦始皇帝宴」となっていた。なんとなく清の宮廷料理「満漢全席」を連想するではないか。それにしては品数が少ない。菜単(メニュー)によると前菜六種、本菜九種とある。その中で、“鴻門の宴で項羽が樊カイに与えたテイ肩”と称する肉料理がある。その宴で樊カイが食ったのは生の肩肉のはず。ところが出てきた物は豚の脛肉をブルコギ風に焼いたものだ。思うに、この料理は、秦・漢の料理を考証して作ったものではなく、日本人が喜ぶように、いい加減に、ネーミングしたものなのだ。 しかし味は良かった。普通中華料理は、数日続けて食うと食傷する。今回の旅行では、逆に尻上がりに旨く感じた。他の観光客も同意見だった。

5月28日。「とほうもない」と言う言葉がある。この日に行った秦の始皇帝の兵馬俑坑がそれだ。この兵馬俑坑は日本でも良く知られているので説明は省く。しかし百聞一見に如かずとはこの事だ。埴輪の集まりなどという生易しいものではない。鬼気せまる三軍の勢揃いだ。発見されたときには8000体全てが破損していたと言う。現在起立している俑は、発見後再組立てしたものらしい。俑を覆っていた丸太に焼け跡があり、寥さんによると例の項羽の仕業だという。8000体の俑に同じ物は一つも無いと言うが、良く観察すると、顔、胴体、手首別に類似のパターンがある。製法を想像すると次の手順になる。

1.下半身、上体、顔、掌等の部品型を数種類づつ作る。
2.型からはづした粘土片が乾く前に一片づつ変化をつける。
例えば髭先を曲げたり、頬の肉を削ったりする。
3.焼成する。当然一体毎の窯変が出る。
4.焼成された部品をなるべく個体差が出るように組合せる。
5.組立て後、一体毎に異なる着色をする。

こうやれば、全ての俑に相違点をつけるのは易しい。またこの兵馬俑坑には、実物の二分の一の青銅製の皇帝用の馬車がある。李斯が始皇帝の遺体を隠して急がせた馬車だ。これは現在の鋳造技術でも容易でない。また宝剣類も素晴らしい。銅と錫以外の金属も混じっているらしい。現在でも実用と鑑賞に耐える。この兵馬俑坑は、秦時代に、芸術家ばかりでなく優れたエンジニアが存在したことを示している。これらの俑は、昔から百姓が幾度も掘り当てていたようだ。その度に、気味悪がって埋戻していたと言う。今回も若い百姓が灌漑用の井戸を掘っていたら、瓶の割れたようなものが出て首を捻っていた。たまたまその場に来合わせた役人に考古学の素養があった。これが世紀の大発見につながった。発見者の百姓は目糞ほどの褒美をもらって喜んだと言う。

本旅行の最終点として驪山の華清池に行った。楊貴妃湯浴みの温泉として有名だ。正面入口の池に、あるはずのないビーナスに似た女性像が立っている。楊貴妃のつもりらしい。近代美術館にでも置けばともかく、華清池には似合わない。ブリジット・バルドー風の女性像がやや淫靡にシーツを持って立っているのだ。

水滑らかにして 凝脂を洗う
侍児 扶け起こせば嬌として力無し

と、白居易が長恨歌に詠った風情は全くない。最近の野暮役人が西洋人目当てに立てさせたのだろう。この像は無視する事にした。

その目で見ると、ここの離宮はなかなか瀟洒だ。玄宗の浴場、楊貴妃の浴場、李世民(太宗)の大浴場など、大きくはないがそれぞれに風情がある。新緑の柳と花一杯の石榴、池中の紅白の睡蓮などが建物とよく合い心が和む。

借景の驪山の中腹に小さな建物がある。寥さんは、蒋介石が閉じ込められたところだと幾度も説明した。昭和11年、張学良が蒋介石を監禁した現場らしい。しかし同行の日本人観光客は全く無反応だ。この事件が国共合作の基となり、日本の進路を決定づけたのだが。

帰国は西安発JD236便 関空着19時45分。今回の旅行で奮発したものは、碑林博物館で買った曽全碑と顔氏家廟碑の拓本のみ。日本に帰って、これらの拓本と手持ちの書の写真集と比べてみた。曽全碑は写真と拓本に差はないが、顔氏家廟碑のほうは微妙に異なっている。顔氏家廟碑は字自体が大きく、筆圧に応じて深く彫られている。善意に考えれば、それで拓本がとりにくかったとも考えられる。しかし、買った拓本の表紙をよく見ると、金字で「重刻唐顔真卿家廟碑」と銘打ってある。この「重刻」が曲者だ。一度とった拓本を元に別の石を刻み、更にそれの拓本をとったものかもしれない。観光客に売るだけの数の拓本を、既に傷んでいる超国宝の碑から毎回刷りとっているはずがない。堂々と「重刻」と銘打っているからには、本物と贋物の中間だと言う事だろう。それでも習字の手本とするに足る。

敦煌や西安のどのホテルでも、また土産品屋でも、書はよく売っている。一軒の土産品屋で李商陰の「楽遊原」を書にしたものを買った。この詩は日本では次の様になっている。

晩に向かいて意適わず
車を駆って古原に登る
夕陽無限に良し
只だ是れ 黄昏に近し

その土産品屋でこれを見ていると、第4句の「只」の字が「柢」になっていた。一体これはどう読むのか。この書を睨んで考えていたら、店員が話し掛けてきて次の会話になった。

「社長 閉店真近かネ。安くしとくよ」
「俺は社長じゃない。貧乏人の観光客だ」
「ウソばっかり。これ有名人の書。三千円にしとくよ」
「千円なら買う」
「売った!」

断るつもりで3分の1に値切ったのだが、まんまと買わされてしまった。表装は2万円はするに違いない。日本に帰って調べたら「柢」は根底の「底」と同意語で、根本とか基礎を意味する言葉らしい。音ではテイ、訓読ではネだと分った。現代風に翻訳すれば、

暮れに向えど心晴れず
車を駈って古原に登る
夕べの光 無限によし
これ 黄昏近ずくによる

と、言ったところか。日本に伝わる時、この字は有っても無くても良いと考えて「只」の字に置き換えたのだろう。

敦煌の特産品といえば玉がある。買ったものは、水晶の首飾りと安物の夜光杯だけ。それに、新茶と中国一と称する800円也のクリームを買った。この2品の日本での評判は良い。

今回の旅行は、前回の台湾旅行と同じ日数で費用は3倍だったが、内容は比較にならぬほど濃いかった。ただ碑林博物館で充分な時間がなかったことは残念である。莫高窟は良い時期に行くことができた。観光地としての開発はこれからだ。衛生設備などは極端に遅れている。しかし中国が力を付けてきたら、中国人観光客で混雑し、余裕をもって見る事も出来なくなるだろう。

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  1. 名無しのリーク より:

    香川県ルーちゃん餃子のフジフーヅはバイトにパワハラの末指切断の大けがを負わせた犯罪企業

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